このページの先頭です
ここから本文です

100年企業インタビュー 村島硝子商事

2023.05.15

100周年式典の記念写真

 村島硝子商事㈱(奈良県橿原市)は、大正12年(1923年)に創業して、今年で100周年を迎えた。今年に100周年を迎える企業は、全国に約4万社超あるとされているが、その中に加わることとなる。

 100年企業を率いる村島靖基社長に、これまでの事や、これからの事について、お話を伺った。

     ◇

 ―100周年おめでとうございます―

 村島 ありがとうございます。

 ―早速ですが、初めに100年の歴史を持つ企業のトップとして、成功の秘訣は何だったと考えていますか?―

 村島 村島硝子商事の祖は、祖母の村島スミさんになります。彼女が偉大で、今でもガラス屋さんから「あなたのお婆さんにはお世話になった」と言われています。祖母が村島家の筋で、祖父は和歌山の方から婿養子として入って来ました。祖母自身が村島家の本宅から新しい商売を始めるようにと託されて、ガラスの商売を始めたところに祖父が婿として入ってきた感じです。祖母は自分でガラスも切るし、切ったガラスの板がどの寸法でどこにあるか、全部記憶していたそうです。ガラスの注文が入った際に、定寸から落とそうとすると、「そんなもったいないことはやめなさい。あそこに端板があるから、それを持ってきて」と社員に指示を出していたそうです。切りっぱなしの板が、どこに何があるかが、全部コンピューターのように頭の中に入っていたようです。

 ―本当にコンピューターのような方ですね―

 村島 大板からガラスを落とす時も、今ならコンピューターで最適な取りを計算しながら作業しますが、祖母は頭の中に取りが入っていたようです。奈良県でガラス屋さんを創業された方々からも「あなたのお婆さんから取りを教えてもらった」と、祖父のことよりも祖母の話ばかりできてきます。祖母に面倒を見てもらったから「ガラスは村島硝子でしかか買わない」、「独立した時に、村島さんにガラスを売ってもらえたから今がある」と、言っていただいています。

 ―地域の皆さんの面倒を見るだけでなく、ノウハウの提供もされていたのですね―

 村島 小さな頃に、前掛けにガラス切りを入れてガラスを切っている祖母の姿を覚えています。当時は何も思いませんでしたが、今考えると、とんでもない女性だなと思います。

 ―女傑と言うと失礼に当たるかも知れませんが、偉大な方ですね―

 村島 村島硝子商事の一番大切なのは「信用」なんだと、小さなころから祖母に言われて来ました。信用第一であることと、質素倹約を大切にしていました。

 ―近江商人が言う「始末」のような感じでしょうか?―

 村島 そうですね。その辺は徹底していたと思います。私も見習いきれていませんが、根底にそうした部分があると思っています。

 ―すこしお話が逸れますが、村島家はガラスを扱う前は、何をされていたのでしょうか?―

 村島 村島家は、400年前は綿問屋でした。奈良盆地は綿花の産地で、綿花を買い集めて、大阪などに出して、それで財産をなしたようです。明治維新の際には維新側について、長州との交易窓口もしていたようです。幕末の志士で梅田雲浜(うめだうんぴん)という人がいますが、そのパトロンをやっていて、雲浜は村島本家の女性と再婚したそうです。安政の大獄で病死しました。

 ―それが村島社長のルーツですか―

 村島 本家から見ると新宅です。綿問屋から始まり、造り酒屋や金物問屋等に分家が分かれて出来ました。うちもその分家の一つになります。

 ―その中でガラスに目を付けられたのは、先見の明がありますね。御祖父様のお話は、何かエピソードはありますか?―

 村島 祖父は真面目な感じで着実にやっていました、昔は奈良の山奥までリアカーのついた自転車でガラスを運んでくれていたと聞いています。

     ◇

 ―次に、村島硝子商事の100年の中で、節目となるような印象に残る出来事はありますか?―

 村島 村島硝子商事は平成3年(1991年)に売り上げが22億円程あってピークでした。その頃から日米構造協議などが始まり、平成5年には一気に赤字になりました。その時に、日本板硝子さんからご支援があって、私の前の社長である森本さん(森本保氏)に来ていただきました。その頃までは、個人商店の集まりのような感じだった村島硝子商事を、会社組織として形にしてくださいました。

 

 ―少しお話が前後しますが、村島硝子商事が法人改組したのは何時の事ですか?―

 村島 私の父が社長で、祖父母が健在だった昭和40年の10月11日に株式改組しました。昔は、どこもそうでしたが、営業がガラスを切って施工もやっていました。

 ―以降は大きな問題もなく、安定している―

 村島 そうでもありません。私が村島硝子商事に入社した際には、村島硝子商事経由でハウスメーカーに入っていたガラスがメーカー直に切り替わったりして、「これ、どうするんだ」というタイミングもありました。一方、旧トステム(LIXIL)さんが、地域のれん政策を試験的に始める中で全国に先駆けて代理店にお客さんを結びつける話が出ていた際に、村島硝子商事を選んでもらえました。選ばれた理由として「後継者がはっきりしていたことが大きかった」という話を後で聞きました。いいタイミングで帰って来たかなと思っています。後は、会社の体制として新築に依存せず、リフォームに強い体制だったことも挙げられるかもしれません。

 ―先人の方の判断や目の付け所が良かったのでしょうね―

 村島 販売店を超えてビルダーさんに行くなという精神があったので、バブル期でも大きな損失が無かったのが良かったのかもしれません。

 ―地元の皆さんを大切にして商売を続けられたことが、良い方向に繋がったということですね。最後に、次の100年に向けて決意や目標、抱負の様なものを伺いたく思います―

 村島 100周年のパンフレットにも書きましたが、「夏は涼しく、冬は暖かい家」というものは、皆さん風邪も引かないし、良いものです。1軒でも多く、断熱性や気密性の高い家が世の中に増えたら良いし、村島硝子商事も最終的にはそうした家を建てることができるグループ会社を持ちたいと思っています。

 ―ハウスビルダー的なことも出来るようになっていきたい?―

 村島 不動産業も始めたので、「新築を建てたい」や「リフォームをして欲しい」といった相談も受けます。今は協力会社さんと一緒にやっていますが、いずれは自分たちで、自分たちがいいと思うサッシ、開口部商品をふんだんに使用した、断熱性の高い笑顔のあふれる家をたくさん増やせればと考えています。新築やリフォームを希望される方が見えたときに、土地はできるようになったので、家を建てて、住んでいただいて、住んでからも一生お付き合いを続けられる住宅産業の会社になりたいと思っています。

 ―地域のお客さんと協力しながら、自信のある商品を提案して家を建てきるところまでの能力を持つことが、今後の目標の一つでしょうか?貴重なお話を頂きありがとうございました。次の100年に向けてのご活躍を期待しています―

同じカテゴリの記事